~ スタンド バイ ミー ~
「あら、健。丁度いいところに。ちょっとこっちに来て手伝ってよ。お願い」
「・・・げ。なんで出てくるの」
小学校の卒業を間近に控えたある日のこと。
若島津健は、友人である日向小次郎を伴って家に帰ってきたところだった。日向には、今日は家人は留守なのだと伝えていた。横にいる日向の顔が『あれ?』となっているのが分かる。若島津は内心で舌打ちした。
若島津家の人間は、皆が皆日向のことを気に入っている。二人だけで話したくてわざわざ家に連れてきても、いつも何だかんだとちょっかいを出され、途中で止め置かれる。だから今日も面倒だと思い、わざと家の者には日向が来ることは内緒にし、日向には家の人間はいないと嘘をついた。だのに、ひょっこりと居間から顔を出した母親に見つかってしまったのだった。
「こんにちは。お邪魔します」
「あら、小次郎くんも一緒だったのね!いらっしゃい。ゆっくりしていってね」
礼儀正しくペコリと頭を下げて挨拶をする息子の友人に、若島津の母親は笑顔を見せた。
何しろこの少年は、最近とみに扱いが難しくなった息子に比べて、とにかく素直で可愛らしい。そして父親の言うことも母親の言うことも聞かなくなりつつある息子が、この友人のことは信頼しているようで、彼の忠告なら聞くのだ。日向小次郎は若島津家にとって、歓迎すべき客だった。
「ねえ、健ってば。良いじゃないの。30分もかからないわよ」
「やだよ、めんどい。それに今は日向が来てるし」
「じゃあ、小次郎くんが帰ってからで構わないから。ね?後でちょっとでいいから付き合ってよ」
「だからやだって。別に俺じゃなくったっていいだろ。そんなの」
母親のたっての頼みを若島津は無下に断る。
日向はしばらくそのやりとりを黙って見ていたが、やがてその凛々しい眉を気遣わし気に顰めた。
詳しい事情までは読み取れないが、母親が「お願い」と言って手を合わせているのに、それを端から受け入れようとせずに拒否する息子というのはいかがなものか。少なくとも日向家では有り得ないことだった。
「若島津。そんな言い方ってないだろう。おばさんがこんなに頼んでいるのに、面倒とか言うなよ。できないなら、できないなりにちゃんと理由を言え。その理由が無いなら、やってあげろよ」
「・・そりゃあね。日向は当事者じゃないから、そんな悠長なこと」
「あ!それなら小次郎くんに頼めないかしら。ねえ、今から30分くらいでいいのよ。ううん。20分でもいいから、ちょっと付き合ってくれないかしら。ね?お願い!」
見かねてつい『母親に向かってそんな言い方は無いだろう』と若島津に説教をしてしまったところで、肝心のその母親から「健が駄目なら、じゃあ小次郎くんにお願い!」と水を向けられ、日向は目をパチクリとさせた。
(あれ?別に若島津じゃなくてもいいようなことだったのかな・・・?)
「ね、お願い!小次郎くん」
たった今、若島津に『できない理由が無いなら、やってやれ』と言ったばかりだった。口にした傍から取り消すようなことは、日向はしない。「・・・はあ、俺でできることなら」と答えて、若島津の母親を喜ばせた。
だがその様子を傍観していた若島津がニヤニヤとしていることに気が付いてしまい、途端に嫌な予感に襲われる。
もしかしたら自分は何かマズイことを了承してしまったのではないか 日向は疑心暗鬼にかられた。
「ほんと!?助かるわあ。ありがとう、小次郎くん。・・じゃあちょっと、準備するからこっちに来て」
「あの・・・」
「大丈夫よう。すぐに終わるからね。ちょ~っと立ってて貰えばいいだけだからね」
「俺は一体何をすれば・・・」
「そうねえ。・・・・とりあえずは」
若島津の母親は息子と瓜二つの美しい顔に満面の笑みを浮かべて、さらりと答えた。
「その服を、脱いでもらいましょうか」
「これって・・・」
肌着姿になった日向は、畳の上に広げられた着物を見て唖然とした。それは黒地に赤や紫の牡丹があしらわれた、艶やかな女性用の着物だった。
「袴を着付ける練習をしたかったの。これね、志乃が小学校を卒業する時に着せたものなのよ。今度の卒業式に貸してあげることになったんだけど、着付けをしたことがないって言うから、私がやってあげることにしたの」
「へえ・・・」
「でも着物はともかくとして、袴なんて普段着せることがないでしょう?久しぶりだから一回練習しておきたくて。それで健に『練習台になって』ってお願いしているのに、ちっとも協力してくれないのよ」
「これってやっぱり、女物・・・ですよね」
長襦袢に衿芯を差し込みながら息子の冷たい仕打ちを訴える若島津の母と、まさか女性用の着物と袴を着せられるとは思いもしなかった日向の会話は噛み合わない。
若島津本人はといえば、そのやり取りを聞いて呆れたように口を開いた。
「だからそんなの、本人を呼んでやればいいのにって何度も言ってるじゃん。俺だってやだよ。いくら練習ったって女の恰好なんか」
「男がいちいちそんな細かいことを言うんじゃないわよ。ねえ?小次郎くん」
「・・・いや、俺も女の着物だって分かってたら」
「うん?なあに?」
「・・・いえ。何でもないデス」
にっこりと邪気のない笑顔を向けられ、日向は続く筈だった言葉を誤魔化すように目を逸らした。
日向はそもそも女性というものに弱い。しかもそれが母親と同世代の女性であれば、逆らうとか無視するとかいった行動は、到底考えられないことだった。
ただ逸らした拍子に若島津と視線が合い、にやりと笑われたのには腹が立つ。
(くっそ。てめえ、覚えてろよ・・・)
若島津は当然、自分の母親が息子の友人に着せようとしていたものが女物の袴であることを承知していた筈だ。それならそうと教えてくれても良かった。
それをあえてせずに静観していたのだから、そこに悪意だって感じようというものだ。
「あら?こうして見ると、小次郎くんって意外と細いのね。スポーツしている男の子だし、補正しなくても・・って思っていたけれど、タオル巻いた方がいいわね。・・・ね?ほらウエストとか腰とか、健よりも細くない?」
「何故かみんな勘違いするらしいんだけど、全体的に俺の方が日向より大きいんだよ。な?日向」
「うるせえよ。俺は中学入ったらデカくなるんだよ。お前のことなんかすぐに抜かしてやる」
「じゃあ1枚だけ巻いときましょうか」
日向の胴回りにタオルを巻いて、腰紐で固定する。続いて長襦袢に腕を通させ、これもまた腰紐で縛ってから伊達締めをした。ギュ!ときつく締め上げられて、日向はカエルが踏みつぶされた時のような声を出した。
「あら。きつかったかしら?」
「い、いや・・。大丈夫です」
「ごめんなさいね。でも緩んでいると着崩れしちゃうから」
次に着物を羽織らせて裾をたくし上げると、その部分を腰の周りに巻いてこれも腰紐で固定した。再び伊達締めをして襟を整える。
「これ、結構・・・動くのきついですね」
「まだこれから帯を締めるんだけどね。本来は動きやすいように袴をはく訳だけど、卒業式ならやっぱり見目良いのが一番大事よね」
若島津の母親は話しながらも、手早く着付けていく。帯を巻いて結び終えると「小次郎くん、この中に入って」と袴を穿かせた。
「えっと、袴の位置は・・・この辺よね」
位置を決めると袴の前側の紐を後ろに回し、帯の結びの上で交差させて前に戻す。「思いだした、思いだした」と言って、若島津の母は袴の後ろ側の紐も結ぶと、最後にリボンの形を綺麗に整えた。
「出来た!どうかしら?健。おかしくないわよね?」
日向の身体をくるりと反転させると、それまで部屋の隅に座って二人の様子を眺めていた若島津の方に押し出した。
「おかしくないんじゃない?・・・っていうか、割と似合ってて怖いんだけど」
「お前、適当なこと言ってんじゃねえぞ」
「あら、本当よ。・・・大きくなったようでも、小学生の男の子ってまだまだ細いのねえ。小次郎くん、とっても可愛いわよ。・・・そういえば、髪飾りもある筈だけど」
「いや!そういうのはいいから!絶対にヤだから!無理だから!」
ガサガサと箱の中を探し始める若島津の母を、日向は慌てて止める。鏡で確かめるまでもなく、自分が滑稽な恰好をしているだろうことは想像がつく。これ以上みっともなくなるのは御免だった。
だが実際には若島津やその母親が言うように、黒を基調とした色彩のはっきりした艶やかな着物と、赤紫色の袴は日向自身によく似合っていた。
これが淡い色調のものであればまた違ったかもしれない。だが普段は「怖い」「強面」と陰で囁かれるほどにきつい日向の目つきや凛とした佇まいが、胸元で華やかに咲き誇る牡丹によく合っていたのだ。
(馬子にも衣装っていうか・・・・意外だったけど)
うーん、と若島津は胸の前で腕を組んで考える。本当は笑い飛ばすつもりでいたのだ。「親の頼みくらい聞け」と迂闊なことを言い出してくれる日向のことを、「口は災いの元だぞ」と揶揄うつもりだった。
なのに 。
(こんな恰好のコイツを可愛いと思うとか・・・・一体どんだけなんだよ、俺)
若島津はごく控えめに言っても、自分が日向を気に入っていること もっと端的に言うなら、好きであるということを自覚している。
それが将来どのような形になっていくのかは、今のところは分からない。だが自分がサッカーをやりたいだけなら明和東でも良かった筈だ。それを父親に抗ってまで東邦に進もうというのだから、嫌でも自覚せざるを得なかった。
(ちょっと、やばいかも・・・。こいつ、確か卒業式終わったら、すぐに東邦に行っちゃうんだよなあ・・・)
いやいや、でも日向だし。この着物さえ脱げば、いつもの怖い顔をした日向だし!・・・と若島津が一人で悶々としていることも知らず、日向は「ねえ、これもう脱いでいい?」とげっそりとした顔で聞いていた。
「・・・つ、つかれた・・・」
「お疲れー」
日向は当初の目的地であった若島津の部屋にようやく辿りつくと、持ち主の許しも得ずにベッドにダイブした。それくらいにクタクタだった。若島津も文句をつけることなく、一応は労いの言葉をかけてくれた。
あれだけ嫌がったにも関わらず、「だってヘアメイクもしてあげなくちゃいけないんだもの。小次郎くんと同じくらいの長さのショートカットの子なのよ。髪も練習させて!」と懇願する若島津の母に根負けして、髪飾りまでつけられた。
それから「記念だから!」と言って写真まで撮られた。またタイミング悪く帰ってきた志乃にも見つかり、狂喜乱舞された。
「ネットには絶対に上げないから!拡散しないから!だから撮らせて!」と乞われて、志乃のスマホでも撮影会が始まった。
若島津家の女性陣は喜々としていたが、自分はかなり顔が引きつっていただろうと日向は思う。
それでも思い付きのように言われた「何なら健も自分の袴を穿いて、二人で一緒に写真を撮る?」というのだけは、断固として阻止した。なぜなら、「健の袴」は兄のお下がりの男ものだったからだ。
(だって、そんなのってあんまり過ぎる !)
日向は、はああ・・・とため息をついて、「尊たちにだけは見られたくない・・・」と力なく呟いた。
「さすがにそれはしないだろうと思うけど、一応は言っておくよ。・・・でも分かっただろ。うちではあの人たちの『お願い』を聞いてるとキリが無いんだよ。どんどん要求がエスカレートしていくし」
「・・・俺が甘かったよ」
日向はゴロリと転がって仰向けになった。
「動きにくくたって、女子はあんなのを着たいんだなあ・・・。誰だっけ?アレ、貸す相手って」
「4組の村井」
「ふーん・・・。そういや、お前も袴を穿くの?」
「今のところはな。日向は?東邦の制服?」
「そう。スーツ買わないで済むし」
若島津は東邦学園の黒地に白のラインが入った制服を思い浮かべた。今時シンプル過ぎるほどのデザインだが、頭身が高くて姿勢のよい日向なら見映えがするに違いない。
「いいじゃん。カッコイイよ。俺も本当は制服がいいんだけどな」
「え!ほんとか!じゃあ一緒に着ようぜ。お前も東邦の制服にしろよ!」
日向はガバリとベッドから身を起こした。
卒業生の中には私立の中学に進む生徒も勿論いるが、殆どの生徒が学区内の公立中学に進学する。そこの制服はチェックのスボンにブレザーだった。
別に一人で東邦学園の制服を着るからといってどうということも無いが、若島津と一緒ならそれはそれで嬉しい。
「とは思うんだけどさ。うちの親父がまだ東邦への入学を許してくれた訳じゃないからな・・・。卒業式の日くらいは波風立たせずに一日を終わらせろって、姉ちゃんたちに厳命されているんだよな」
「・・・そ、か」
日向は再びパフンとベッドに倒れこんだ。
寝ころんだままで視線を巡らせて、部屋の中を眺める。若島津らしい、余計なものがなくスッキリとした部屋だった。
(この部屋で・・・この家で、こいつはずっと育ってきたんだよな・・)
若島津が「俺も東邦に行く」と言いだした頃から、日向は時々考えていることがある。
自分の場合はいい。家族を置いて東邦に進むことも、家の事情からすればそれが最善の道だと断言できる。
だが若島津の場合は違った。
空手道場の息子に生まれ、その才もある。家は裕福で、家族も愛情を持って末の息子に接している。
サッカーをやりたいのであれば、地元にも強いクラブはある。若島津がどうしても家を出なければいけない理由は無かった。『日向と一緒にサッカーをやる』という目的以外には。
つまりはこの家の人間から若島津を引き離すのは、他ならぬ日向だということだ。
(だけど。 だけど、それでも)
日向はギュ、と目を瞑った。
この家の明るく朗らかな女性たちに、きっと寂しい思いをさせる。親子の間に諍いも生まれる。これまで上手くやってきたであろう家族の中に、不和が生じる。
それが分かっていても、日向は若島津を諦められなかった。
一緒にいたい。傍にいたい。傍にいて欲しい。
傲慢だとそしられるのは慣れている。だけど、家族と離れるうえに若島津までいなくなるのは、耐えがたかった。
自分の勝手だとは承知している。それでも若島津が東邦を受けると言ってくれた時は、やはりうれしかったのだ。
「日向?どうした?」
「・・・何でもねえ」
若島津は他人の心情には基本的に興味もなく無頓着であるが、日向だけは例外で、その気持ちの機微には敏かった。
ベッドに寝ころんでそっぽを向く日向に近づき、その傍に座る。
「心配してんの?俺がちゃんと東邦に行けるかって?」
「別に、心配なんか」
「大丈夫だよ。受かったからには親父のこともちゃんと説得して、絶対に東邦に行くよ」
「・・・・」
「必ず追いかけるから。先に行って待ってろよ。な?」
「・・・ん」
背を向けていた日向はゴロンと身体の向きを変え、そのまま若島津を見上げた。力を入れて目を瞑っていたからか、目元がほんのりと赤く染まっている。
それが日向のきつい顔立ちを、妙に甘く可愛らしく見せていた。
「・・・なんか、俺の方が段々心配になってきたんだけど」
「何がだよ」
「いや・・・何でも。日向は卒業式が終わったら、すぐに東邦の寮に入るんだよな?」
「そうだけど」
「俺もすぐ行くからさ。なるべく早くケリをつけて、絶対に行くから。東邦でお前とサッカーするから」
「・・・うん」
日向は自分の顔の近くに置かれた若島津の手に、自分の手を伸ばした。小指と小指を軽く絡めて、一人固まる若島津に「やくそく、な」と言ってふわりと笑う。
「・・・・・っ、」
若島津は空いている方の手で、ガリガリと頭を掻いた。
「ここに至って、心配ごと増やされるとか・・・。あー、もう!何なんだよ、お前はほんとに・・!」
先ほどの日向のように、はあああ・・と大きなため息をついて項垂れる若島津に、日向は「??」と首を傾げた。
END
2017.03.25
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